昨日の夕ごはん
写真を撮ったつもりが写っていなかった(・・;)
メニューは、
エビ、玉ねぎ、ピーマンのフライと野菜盛り合わせ、たらこ、
キムチ冷奴、玉ねぎとひじきの炒め煮、スモークサーモンと玉ねぎのマリネ
玄米入りご飯、りんご
玉ねぎの買い置き消費のための献立
昨日初めて米1と3/4カップにロウカット玄米を1/4カップ混ぜて炊飯してみた
水の量は2と1/4カップにして炊飯器で炊いたら、
少し柔らかめだったが、もちもちふっくらしてとても美味しかった
玄米を炊く時は水の量を少し多めにとあったので、
今夜は普通の米1カップとロウカット玄米1カップで、
水の量を2と1/4カップで炊いてみようと思う
糖質カットの美味しい玄米で痩せたいな
先日、ご紹介した私の愛用品をたくさんの方に購入いただきました
心から感謝申し上げますm(_ _)m
60歳にして舅の気持ちを知る
先日、夫が今は亡き夫の父親である舅の話しをした
夫は農家の次男坊で長男である義兄とは差別されて育った
家長制度が普通だった当時では、
長男と次男の扱いが違うのは当然だったのかもしれないが、
夫としては生まれた順番でおかずからなにから格差をつけられるのだからたまらない
特に舅は夫に対して褒めるということを全くしなかったので、
夫も舅に対して憎しみにも似た感情を持っているようにみえた
私と夫が結婚して7年ほどして舅が亡くなった
遠く離れて暮らしていて盆正月しか帰省しなかったので、
私の舅に対する印象は夫の感情に強く影響され、
うちには姑の遺影はあるが、舅の遺影はない
それが、先日ふと夫が遠い昔のある日の出来事に触れた
当時夫は私の家に婿養子に入ったものの、
私の両親や仕事に馴染めず苦しみ、
私の家を出ることを考えていた
舅は夫の性格をよくわかっていたので、
私たちが結婚することには賛成していたが、
私の父の事業を継ぐことに対しては心配していた
それを押し切って婿として跡取りに入ったものの、
結局皆の心配したとおり、夫は行き詰まった
そんな時、半年ぶりに舅のもとに帰省した私たち夫婦を舅は自分の持っている土地へ連れて行った
そして「おめだちが戻ってきたら、ここに家ば建てたらいいかもしれねえな
ちいさな家なら建つんだよ
ここは水道を引かねばなんねえが、
南向きで一日中日がさすんだ
栗の木もあるしよ」と言った
私はとても驚いた
私の実家を出ることになるだろうと、薄々感じてはいたものの、
遠く離れた夫の故郷に住むことは全く考えてもいなかった
舅は「なに、ただ言っただけだ」と笑ったが、
背は山で目の前に広がる田園風景は夕日に輝き、
そこで暮らす自分を想像した
その後、夫に「あそこで暮らそうか?」と聞くと、
夫は横目で私を見、ひとこと「キミには農家は無理だ」と言った
あれから30年が経過する
昨日、あの時の舅の表情や言葉が鮮明によみがえり、
私は涙が止まらなくなった
時はめぐり、私たちは当時の舅の年齢になった
息子は同じように遠く離れた土地で、医師としてコロナの最前線で働いている
息子のことが心配で、毎日息子のことを考えない日はない
近くに住んでいたら何か力になれることがあるかもしれないが、
今はなにも助けてあげることは出来ない
苦しい息子の姿を想像する身になって、
初めてあの時の舅の気持ちを理解することができた
舅がどんなに息子のことを心配していたか、
苦しむ息子を見て初めて舅の親としての気持ちに思いが至った
結局、私たち家族は私の実家を出て、都会で人生をやり直した
その後も何度も苦しい場面に遭遇したが、
苦しくなると、実際はそんなあてなどないのに、
あの栗の木の土地に小さな家を建てて住もうと夢をみた
舅が私たちの心の逃げ場を用意してくれたと感じる
今60歳になって、子育ても済み、私たちの人生も大きなヤマ場は過ぎた
あと残っているのは老いの山か、、、
そこまで来て、やっと舅の優しさを知るとはなんと愚かな嫁であろうか
してみると、人生とはそんなものかもしれない
息子夫婦に私たちがどんなに心配しているか、
口で言っても、今の生活が精一杯で考える余裕もないだろう
私たち親の力など全く力にならないと思っているかもしれないし、
親を頼るようなニンゲンにはなりたくないだろう
私たち夫婦もそう思って今まで頑張ってきたのだから、
息子夫婦がそうであっても当然と思う
しかし、今この年になって、親という存在のありがたさが身に染みる
あの栗の木のある土地に住むことはなかったが、
いつか夫と訪ねてみたい
そして、私の孫にもあなたの先祖はここにいると伝えたい
美しい水田が広がる東北のあの故郷に、、、